- 間宮林蔵絵巻
さんの 2014.12.01 間宮林蔵一代絵巻 戻る ←→ 進む


父(秋山桑人)が使用していたアトリエが、嵐の度に雨漏りがして、 二階は当然として一階まで雨水が漏れてきたので終活ではないが、 子供のことも考え、取り壊すことにしました

私が生まれた時は、既に蔵としてあり、祖父・祖母が商売を始めたころ 建てたのだと思いますので、築100年以上を過ぎていると思います。 父が定年後、アトリエとして改造し、93歳でなくなる寸前まで 使用していました

工事を始めた2日目に一番上の棟木に上棟式の記録が釘づけしてありました。 それには
  =====上棟式 明治弐拾五年 陰暦二月二十八日 三妻村 大工棟梁 森安太郎=====
とあり その下に 戸主 林 民吉 が隠れていました。 1892年閏年、今から122年前だった。此の時、私の祖父は、 8歳だったので、多分、所帯を持ってから、林さん?から購入した ことになる

アトリエは、幼稚園生から小学生・中学生・高校生、そして青年・成人、 さらに定年となったご老人まで多くの人たちが、デッサンはじめ、 水彩画・色紙・油絵と父の指導を受け、勉強や趣味を重ねていたところです

父がなくなって、既に7回忌を済ませましたが、アトリエはそのままに して置いたので膨大な資料と作品が残っています。収納庫として、 イナバ物置 (2630W x 2210D x 2075H) を購入して、整理整頓を始めました

書籍や新聞のスクラップブックは殆ど処分して、絵画は画法など研究していた 練習用の絵画を除き、写真や出版書の下絵などと一緒に新しい物置に格納しました。 整理中、額にはいった10枚の絵巻物が出てきました

中身は、間宮林蔵一代絵巻と称するもので、段ボールに入っていたので、 色鮮やかなままで出てきました。一枚の額の長さが一間(1.8m)あるので、 10枚を飾れる場所は我が家にはありません。また、それらを表装に頼んで 絵巻物にしても、私有物になり多くの人たちがご覧になれません。 そこで、林蔵の生まれ故郷の「つくばみらい市」(旧伊奈村)に寄贈する ことにしました

つくばみらい市に従弟がいるので、仲介を頼み市の教育委員会に働きかけ、 間宮林蔵顕彰会のご協力を得て受け入れて頂きました

それら、10枚を以下に掲示します。 絵巻物なので、絵画と説明が交互に 入っています。説明文書は父の特徴ある文字で書いてあるので、分かる範囲で 私が解読しましたが、不明文字は○で表現しています

間違いがあったり、不明文字が判明した時は、御面倒でもメールいただければ 幸いです


(追伸 2014.12.19)
高校の同級生から10ヶ所の解読メールを頂きました。 これで不明箇所は残り3ヶ所となりました。有難うございました

(追伸 2017.09.30)
坂東郷土館ミューズのご厚意により全文解読できました。 御礼申し上げます



絵巻物の全体図です。全部で10枚あります




第壱幕  生い立ち


 第壱幕 生い立ち

 間宮林蔵一代絵巻

 昭和伍壽宇伍年壽宇壱月吉日吉刻
 秋山桑人 執筆

間宮林蔵は常陸国筑波郡
上平柳 今の茨城県伊奈村
上平柳に生まれ多 安永九年
であっ多 林蔵の父は庄兵衛
母は森田氏の出である 庄兵衛
子なきことを憂い月讀命を
信仰して子を得たり 之すなわち
林蔵なり 林蔵幼にして頴悟最も
数理に長じ常に竹竿を携えて
樹木の高低 溝簗の深浅を測るを
好めり


第弐幕  筑波山の立身窟


 第弐幕 筑波山の立身窟

十三才の時大人に伴われて筑波の
山に参訪しその晩山中の旅宿に
泊せり しかるに林蔵何處に行き
けん影だになし 一行天狗に
さらわれたと心痛 其夜一睡も
せず程なく林蔵 今明くる頃
飄然と旅宿に還り来たり 衆
争いて迎いるに林蔵の掌黒く燻り
居たり 之れ子ん林蔵立身窟
にて日本一の人物たらんとの願望
止みがたく紙燭の光あるかぎり参り
つめ このため掌は焼けただれた結果
と判明した


第参幕  岡堰の土木工事


 第参幕 岡堰の土木工事

上平柳の東十町ほどの処に岡堰
がある 堰止め工事は仲々難工事
であつて まず中平土手と中土手の双方
から土俵を川へ投げ込む 川幅は
次第に狭くなって水の流れはますます激
しくなる最后の瞬間がもっとも困難
作業で土俵が押し流されることも
しばしばである子供の林蔵はこの一事を
見ていたが此の拙劣を笑い居れば
普請掛の役人にとがめられ多林蔵は
臆せずこれに答えて役人が其の通り
に実行すると工事は林蔵の言った
通りはかどり進むことが出来た


第四幕  江戸で測量法を勉強


 第四幕 江戸で測量法を勉強

林蔵は幼少より数学的才能に勝れ
幕府普請役村上島之允に約十年
師事したという
栗本鋤雲の独寝独言によると
一酌陶然の後家に帰るに懶とて泊す
る事度々なりしか家人に請いて一片
の蒲団を借り常に帯も解かず
其侭座敷の隅に横臥甘睡し夏も
帳せず冬も炉せず深更と雖も目覚
むれば告げずして去る十年一日殆ど
仙人の如くなりしと戸川の親戚なる医官
曲直瀬善安院が直話なりと五尺二寸の
短躯乍ら林蔵の筋骨鋼鉄の如く
年老多いても尚鍛錬を怠らなかったと言う


第伍幕  蝦夷(北海道)に渡る


 第伍幕 蝦夷(北海道)に渡る

日本最北端の地宗谷岬の近く
間宮林蔵が樺太に出航した地に林蔵
の碑が建っている
此処に行く途中はメグマ原生花園
である 行けども行けども美しい草原
である おそらく林蔵は樺太出航の日取り
潮の流れ風の方向等実地研究のため
何度か此の草原に立ったであろう 其の時
林蔵と共に酋長そしてアイヌ娘達も同行
したであろう酷しい林蔵の生涯の中でも
平和な美しい情景


第六幕  アイヌ民族と親しくなる


 第六幕 アイヌ民族と親しくなる

林蔵は長い蝦夷生活の結果アイヌ
語に精通していたと言う 林蔵が
武士出身でなく農民出身であった
事も幸いしていたかと思われる アイヌが
林蔵に親近感と人間性を感じ林蔵は
アイヌの生活の中に何の抵抗もなく入り
こんでいった事が安易に想像出来る
林蔵は第二回目の樺太探検のあと
アイヌ娘と親しくなりつれて帰ったと言う
一説が残っている


第七幕  間宮海峡を渡る


 第七幕 間宮海峡を渡る

林蔵は樺太の南端自主という処に渡
り此処で探検の途に上がる それより
一年の間飢餓と戦い非常な
困難をおかした 樺太の北端ナニオー
につく 雨で南方のノテトに引返し
酋長のコーニ宅に留まり時機の至る
のを待った。コーニが交易のため大陸に
渡らんことも知り遂に同行を決す文化六年
末コーニ林蔵一行八名小舟に乗じ今の
間宮海峡を横ぎり大陸に向かう


第八幕  黒竜江(アムール川)を上る


 第八幕 黒竜江(アムール川)を上る

林蔵の一向はデスカトリー湾の北に上陸それ
より山を越え河を下り湖を渡って黒竜
江の河岸なるキチーに出る 翌日この
地を去り河をさかのぼること五日遂に
目的地デレンに着く デレンは各地の人々
来たり集まり今交易をなす處である コーニの
交易は七月にして終わり帰途黒竜江を下り
河口に達し海を航してノテトに帰りつく


第九幕  林蔵の功績


 第九幕 林蔵の功績

林蔵は實政拾壱年二十才の時始めて蝦夷地
に渡ってより幕府普請役肩となり文化二年
蝦夷地シツナイ勤務、更に文化五年
第一回樺太探検 同六年第二回樺太探検
東韃靼探検 同十年西蝦夷海岸の
測量、文化三年蝦夷地内部の測量実施
等々 此の間世界地図唯一の日本人名
を冠する間宮海峡の発見の一大偉業
をなしとげる 而し乍ら此の偉業の
影の協力者アイヌ達の存在も
見のがす事は出来ない


第拾幕  日本最北端 宗谷岬のブロンズ像


 第拾幕 宗谷岬のブロンズ像

間宮林蔵生誕二百年を記念
してブロンズの立像が宗谷岬の突端
に稚内浜森市長によって建立され多
林蔵の勇姿は歴史を伝える
モニメントとして今によみがえらせると共
に青雲の心意気が二十一世紀の
日本を創造する若人たちに伝わること
を願い文化五年七月十二日林蔵が出帆した
日を記念して昭和五十五年七月十三日
除幕され多



さんの 2014.12.01 間宮林蔵一代絵巻 戻る ←→ 進む