さんの 水海道 諏訪神社 遷座100年 記念誌 発行:常総市 水海道諏訪町 町内会
表紙 挨拶 目次 概要 見所 変遷 水海道 祇園祭 書物 歴代 記念事業 略歴 奥付

奥付(裏表紙の内側)
平成三十年水海道 諏訪神社 遷座百年 記念誌
おすわさまと水海道
非 売 品
編   集諏訪町町内会役員会
諏訪神社遷座百年記念事業実行委員会
小故島晴夫(文章責任者)秋山節夫
岩本健太郎、川上利英、 五木田喜男
長谷川一種、田中喜代次、西山和栄
表紙デザイン秋山理樹
印 刷 製 本岩見印刷株式会社
発 行 日平成三十年六月


玉垣修繕の際に撤去した表示板とその内容です



      諏 訪 神 社 の お 話
 御祭神  武御名方神、大國主神、事代主神
 大 祭  十月十日
 月次祭  毎月十日
  「古事記」の「大國主神の國譲り」の項をみますと、諏訪神社の御祭神につ
 いて、次のように記されています。
  むかしむかし、高天原の神々が相談されて、天照大御神の御子天忍穂耳命を
 葦原の中つ國(日本國)の君主としてお降りしなさろうとしました。当時日本
 の國には國つ神(先住の豪族)が大勢居住し、中でも勢力特に強力であったの
 が、大國主神の支配する出雲族でありました。そこで國土献上の根廻しに派遣
 されたのが、武甕槌神(鹿島の神)と天鳥船神でこの両神は出雲國の伊那佐の
 小浜で、大國主神と交渉をはじめられました。ご長男の事代主神は意義なく賛
 成されましたが、次男の建御名方神は武勇にたけた神でありましたから易々と
 承知しません。とうとう腕力で争うことになりましたが、建御名方神は武甕槌
 神に負け、追われ追われて科野國(長野県)諏訪の地で降参してしまいました。
 そして、「私はこの地にとどまり、他國へは参りません、又、父大國主神のご
 命令に従います。」と誓って、この地方の開拓に一生を捧げたというのです。
 このご功績を称えてお祀り申し上げたのが、即ち今の諏訪大社です。
  ところが、「日本書紀」には、この神話は記載されていませんから、建御名
 方神は國譲りとは無関係で最初から科野地方の開拓に出雲から派遣されていた
 のであろう、という説もあるくらいです。
  とまれ諏訪神社というお社は、全国に四千八百五拾九社あると云われ、いず
 れも科野の大社のご分霊であることから考えましても、ご神徳がいかに宏大で
 あるかが察せられましょう。
  ここに鎮座するこのお社も、諏訪大社の分霊であることは云うまでもありま
 せんが、それを明らかにする記録は、残念ながら残されていません。ただ一つ
 神前の欅の大木(ご神木)の樹齢が、古い歴史を物語っていると云えましょう。
 ところが明治時代までは、この老大木の下、頽廃した小社殿が在しただけで不
 断顧みる人もなかった、と古老は語っていますが、丁度関東鉄道が開通して当
 時、町の有志間で復興の話題が起こり役員の陣容を整えて浄財を募り始めまし
 た。大方のご賛同によって、第一次建設工事が完了しました大正六年十二月、
 改めて科野の本社から新神霊をお迎えしてここに盛大なご遷宮の大祭典を執行
 したのであります。かくて昭和二十九年、全町の氏神として、当社の経営一切
 が町内会にゆだねられて今日に及んだのであります。
  又、当社の幣殿の彫刻は笠間の稲荷神社、成田山新勝寺等の彫刻者と同じ岩
 井市猫実生れの後藤縫之助(旧姓野口)が安政五年六月に手掛けた立派なもの
 であります。
       平 成 元年 六月
       宮 司 岡田一男識